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リスタート

学校の新学期と共に当会もリスタート。
4月当初は寒かったので、ちょうど良かったです。

●パラダイムシフト

まずはMさんの話から。
何気なく見ていた深夜番組でスプーン曲げの種明かしみたいなのをやっていて、その通りにしたらスプーンが簡単に曲がったそうです。
管理人もやり方を教わったので家に帰ってやってみたら本当に軽く曲がりました。

要は力学的なトリックと、「硬いスプーンが簡単に曲がるわけがない」という思い込みを逆に利用している、という事でしょう。
やり方が分かれば曲がる方が当たり前になります。

ここで重要なのは「出来て当たり前」という意識にガラリと変わったという点です。
武術の技も、出来るのと出来ないのはほんのちょっとした事と、「出来る」という無意識の裏付けがあるかないかだと思います。
伝統的な流派が閉鎖的なのは、タネが分かるとみんな出来てしまうからなのでしょう。
人を殺傷する技術が一般的になってしまっては危ないですからね(笑。

常識が劇的に変化することを「パラダイムシフト」と言いますが、武術は正にこれを起こし続ける事が目的です。
普通の人が「そんなこと出来ないよ」と思っている事を何気なくやってしまうから神秘的に思われる訳で、常識との落差が大きい人が「達人」と呼ばれるのでしょう。

スプーン曲げの秘訣から、ちょっとした力学の妙が劇的な変化を産む事を学びました。
技を練習するときにはささいな事にも観察眼を向けてやってみようと思います。


●基本三手

社会心理学者のジョン・バージによると「人の日常行動の99%は意識せずに行われている」そうです。
要するに「無意識の行動」ですが、フロイトの言う無意識と区別するために「自動性」と呼ばれています。

そう言われると、私たちの行動のほとんどは自動的に行われています。
歩く時に「足あげて、前に延ばして、足ついて、重心移して・・・・」などと意識的にはやっていません。
体が勝手に動いているわけです。
かっぱえびせんを食べながらマンガ読んでいたら、いつの間にかえびせんが無かった、というのも自動性がなせる技です。

人間の動作が自動的になるには2つの条件があると考えられます。
1つは「くり返し行われること」
毎日何度も何度も行う動作はいちいち考えながらやっていては効率が悪いので、ある程度回数が重なると脳が行動を一まとめにして小脳に書き込むそうです。
もう1つは「シンプルであること」
複雑な動きよりも単純な動きの方が自動化されやすい傾向にあります。

我々の練習も日常の自動性に組み込んでしまおうと言うのが今後のテーマです。
というか、武術の技とはそうしたものでしょう。
そんな訳で「自動性」を得る為に、シンプルな「基本三手」をしつこく練習致しました。

何度か述べましたが、武術の一流派でもっとも重要かつ有効な技は一番最初に学びます。
いわゆる「基本技」です。
その流派が一番必要だと考えている技術で、シンプルながら一番難しいです。
だから中国の武術では3年間じっと立たせたり、ひたすら円周を歩かせたりさせたりする訳です。
武術を本当に身につけたければ基本技を自動化させるのが確実、ということでしょう。

日本でも江戸時代、剣術の達人がいきなり襲われた時には「気がついたら相手が斬られて地面に転がっていた」そうです。
刀を抜いて、斬って、納める、というシンプルな動作が自動化されていた好例でしょう。

我々の学んだ柔術では初伝三手が最初に学んだ基本なので、これを体に染み込むませるのが上達の一歩だと考えています。

余談ですが、映画「ベストキッド」でミヤギ老人がダニエルに車をスポンジで洗わせたり塀にペンキを塗らせたりしたのは、空手の基本をシンプルな動作に置き換えて何度も何度も繰り返すことで体に染み込ませようとしていたのだと思います。
この映画の武術プロデューサーはなかなかスゴイ人です(笑。

日常的な動作に武術の技を置き換えて何度もやる、というのはいいかも知れませんね。

コラム「良い師を求める・その2」

前回「その1」では技術面から良い先生の条件を考察してみました。
その2はズバリ「人間性」です。
精神的に成熟している人か。
これは聖人君子かどうかではなく、自分の心の弱さをしっかり受け入れているか、という事です。

なぜ第一に人間性を持ってこなかったかと言うと、武術の先生でありながら武術がヘタクソなのはナンセンスだからです。
身体と心の両面に大きな影響を与える鍛錬体系を中途半端な人間が教えるのは危険です。
特に東洋の武術は訓練の過程で意識の変容が起こるので、こうした過程を経験した人でないと生徒が横道に逸れたときに対処できません。
あるレベルに至っている先生は、正しい教えを受けた上に自身も試行錯誤を繰り返して危険な面も十分承知しているので、まずは技術面のクリアーを最初の条件にした訳です。

それに「どうやっても敵わない人がいる」というのは上を目指し続けるエネルギーになりますし、自分が増長するのを防げますから、上手な先生に習うに越した事はないと思います。

さて、上記の事を踏まえて「人間性」です。

日本に広く中国武術を紹介された松田隆智氏の著書の中に、
「空手は君子の武術と言われるが、空手をやると君子になるのではなく、空手をやるのは君子に限る、という意味だ」
という一文があります。
これは武術を学ぶ人すべてに向けた戒めではないかと思います。

例えば、俳句の達人がキレて大暴れしても、数人で取り押さえれば何とかなるでしょう。
(決して俳句の先生を貶めている訳ではないのでどうぞご理解ください)
しかし武術の達人が暴れたら、相当困るのではないでしょうか。

ちなみに達人がどのくらい凄いか一例を見てみましょう。
程氏八卦掌を創始した程廷華は、義和団の乱の最中、横暴な振る舞いをするドイツ兵を見て義憤に駆られ、戦いを挑みます。
たった一人で連隊を相手にして機関銃の掃射で命を落とすまで、実に20数人のドイツ兵を殺傷したそうです。
軍事訓練を受けた兵士が多人数で銃を持って掛かっても歯が立たなかった、という事ですから、想像を絶する戦闘力です。

管理人は色々な先生を見てきましたが、このエピソードは決して大げさではない、と感じております。
こうした技能が暴走した時の事を考えると実に恐ろしいわけです。
武術を学ぶ人間には自分を律する心が絶対必要という事はご理解頂けるでしょうか。

しかしながら、物事というのは全てがトレードオフで成り立っています。
人を素手で殺傷出来るようなパワーと技術を身につけるのは並大抵の事ではありません。
全てをここにつぎ込む、ぐらいの労力が必要でしょう。
途方もない努力をするための一番のエネルギー源は何だと考えられるでしょう?

その一つは「コンプレックス」ではないでしょうか。

全てが満たされていたら何かを渇望するような衝動は生まれません。
「こんなに弱い自分を何とかしたい!」
「人に認められたい!」
「馬鹿にした連中を見返してやる!」
という怨念にも似た情念を抱くからこそ練習に打ち込める訳です。
強くなるためには何でもやる、という人ほど、大きなコンプレックスを抱えているのではないでしょうか。

話をトレードオフに戻すと、このようにコンプレックスを元に武術にのめり込んだ場合、確かに身体能力は著しく向上するかも知れませんが、それと引き換えに「心」の問題は解消されないと考えられます。
強くなればなるほど当面の敵がいなくなるので心は満たされたかの様な錯覚を生じる。
それは単に優越感を持っただけなのを全てが強くなった、と勘違いしているに過ぎません。
心は依然コンプレックスを抱えたままです。
厳しい言い方をすれば、心の闇から目を逸らして体の鍛錬に逃げているだけ、なのです。

もうお気づきかと思いますが、「先生」と呼ばれるほど強い人の中には、心の問題をそのままにして能力だけ高めてしまっている方がいる、ということです。

大変長い前振りでしたが、ここからは先生の「人間性」の見抜き方について考察します。

まず、あからさまに横柄な人はアウトです。
分かりやすいので教室を見学していれば瞭然かと思います。
普段の振る舞いからしても我侭というか、自分の都合しか考えない。
一般的な常識に欠けている。
社会人として落第な方々なので、このような先生とはよっぽど切羽詰まっていなければ関わりを持たない方がよろしいでしょう。

分かりにくいのが表面的には丁寧な対応をしているけど、実は・・・というタイプ。
付き合っていく内に段々支配的になってくる先生です。
普段は静かだけど、なにかのスイッチが入るといきなりキレたりする人もいます。
このような方を見抜くには、常に一緒にいる弟子への接し方を観察すると良いでしょう。
例えば、師範代とか長く教室にいる生徒さんをアゴで使ったり、小間使いの様にあしらったりするのを見たら要注意です。
もしこうした先生につくと最初は親切にしてくれますが、つき合いが長くなるにつれてぞんざいになったり、子分扱いを受けます。
先生本人は面倒見が良いつもりなので余計始末が悪い。
親しくなった人に、かつて重要だった人物(親、親族など)へぶつけられなかった感情を代わりにぶつける「転移」を起こしていると考えられます。
また、弟子を一段低く見ることで相対的に自分を高い位置に置きたい、という心理なのでしょう。

他流を一切認めないとか、他の師範を貶す先生も危険です。
こういう人は自分に自信がないから他のものを排除したり、下に見たりしたくなるのです。
他流から教えを請いに来た生徒に辛く当たったり、嫌がらせして追い出そうとしたりします。
充分に練習して自分の流派に誇りをもっている先生は、他流の先生も同じ様に練習に励んで流派を大事に思っているだろう、と考えるので、相手を尊重します。
それに「上には上がいる」ということを理解しているので、自分より強い人を認めています。
無理に「自分の方が上だ!」と思い込む必要がないのです。

ユングの心理学では、自分の認めたくないイヤな部分の事を「影」と呼び、個人における代表的なコンプレックスとしています。
この「影」と真正面から向き合い、自分の中に受け入れる事が精神の成熟につながるそうです。
上記の問題ある先生方は、自分の「影」に怯え、人に気づかれたり触られたりする事を恐れるあまり横柄な態度を取ったり、人より一段上にいるような状況を作り出したりするのでしょう。

武術に逃げ込まず、しっかりと「影」と向き合った人こそ「良い先生」だと思います。
こうした先生は人間の暗い部分、弱いところについて深く掘り下げているため、生徒の「影」の事も理解してくれる筈です。
武術は殺傷の技術ですから、自分に、更には人間に悩みぬいた先生でなければ教える資格がない、と言ったら厳しすぎるでしょうか。

「みだりに師につくな」
「3年師を探せ」
という格言は、こうした事を踏まえてのものだと考えられます。
技術・人格共に兼ね備えた先生を見つけるのは、宝探しみたいなものですね。

ちなみに管理人の理想の師のイメージは映画「ベストキッド」のミヤギ先生です(笑。


さて、次回のコラムは「良い師を求める・その3(最終回)」です。
(まだやるのかよ?というツッコミはスルー致します(笑)






3月の稽古

3月の稽古も無事終了致しました。
施設の都合により、4月半ばまで一休みです。

●武道必修化について

学校教育での武道必修化について少々議論しました。
はっきり言って「すぐに止めるべき」です。
誰ですかね、こんなバカな事をやり始めた奴は。
文部科学省の頭のおかしい役人がついに発狂したのでしょうか。

そもそも武道、武術は人に強制されてやるものではないし、やってはいけないと思います。
どうしてもやりたい人が「覚悟」を決めて始めるものでしょう。
これは教育の名を借りた軍事教練に他なりません。
子供を国の奴隷にするための方策の一つです。
こんなものに将来のある若者を参加させるなど、断固反対です。

もしどうしても体育に武道を取り入れたいのなら、希望者による選択制にするべきです。
そして経験豊富な指導者を呼んで、少人数で基本に絞ってしっかり教える。
やる以上はきっちりとやるのです。
その為にはお金もかかるし、普通の授業以上の手間もかかります。
体裁だけ繕うような授業をやっていると、死人が続出します。
そうなったら誰がどのように責任を取るつもりなのでしょう?
狂った役人は責任を取らされそうになると途端に正気に戻ってどこかに逃げてしまう様ですがね。

●打ち込み捕り

さて、訳の分からない教育方針に感情的になっていても仕方ありません。
稽古ですが、今回は特に「打ち込み捕り」という上からチョップを振り下ろしてきたのを捌く技を研究してみました。

元々刀を振り下ろしてくるのを捌く対剣術の技なので現代ではなじみがありませんが、上からの運動エネルギーというのは捌いた時の変化が分かりやすいので、柔術系の武術ではよく取り入れられています。
自分より背の大きな相手を想定したシュミレーションでもあるでしょう。

合気道の各流派や、自分達がこれまでやってきた技を色々と並べて検証を重ねました。


●推手

太極拳は(特に楊式太極拳)大東流合気柔術と共通点が非常に多いです。
個人的な意見ですが、大東流を創始した武田惣角氏は何十年かどこで何をしていたか分からない時期があるそうで、その時に太極拳を学んだのではないか、と考えております。

そんな訳で太極拳から得るものはとても大きいと思います。
太極拳と言えばゆっくりとした型が特徴ですが、もう一つの独特な練習法が「推手(すいしゅ)」です。
推手というのは太極拳の2人で行う鍛錬法の事です。
武術として太極拳を運用するには、これが必須だそうです。

日本の武道は2人で行う型が多いので推手なんか必要ないだろう、という意見もあるかと思います。
しかし推手には人に対する様々なリアクションを無意識に行える様にするシステムが組み込まれており、それが共通点の多い大東流系の柔術にもプラスに作用すると考えられます。

そんな訳で、推手を少しやってみました。
理屈がいくつかあって、それを満たしながら行うのが難しいです。
今後も時々やってみたいです。

2月までの稽古

2ヶ月間、稽古はしていましたが、全然内容をアップしていませんでした。
まとめてご紹介します。

●普段着で稽古

街でトラブルに巻き込まれた時、「ちょっと道着に着替えるから待ってくれ」と言う訳には行かないので、普段着のまま稽古してみました。
道着でやるのとはかなり勝手が違います。
冬は厚着しているために動きがにぶくなったり、逆に反撃する際にうまく掴めなかったりと色々研究の余地がある事が分かりました。

実は寒いから着替えるのを躊躇しただけですけど、ヒョウタンからコマでしたね(笑。


●武器の扱い

たまには棒を使った何かをやってみよう、という事で、相手に棒を掴ませて制する方法、逆に相手の棒を奪う技、などを色々と練習してみました。

家に警備用の木刀を備えている方もいらっしゃるかも知れませんが、刀は刃がついているからこそ刀の形状が生きるものです。
木刀は刀の形をしている為にかえって使い方を限定されます。
もし装備するならただの丸い木の棒の方が応用が効くと思います。

狭い家の中で木刀を使って侵入してきた強盗を追っ払う、というシュミレーションをしてみました。
ここで研究の成果を書くと強盗に対策をされてしまうかも知れないので、あえて書きません(笑。
剣道みたいに振り回す、という固定観念を捨てる必要があると実感しました。

どうしても刀的なものがお気に入りなら真剣を置いておく方が良いでしょう。
賊が包丁をちらつかせたら、こちらは刀を抜くのです。


●合気上げ

「合気上げ」と呼ばれる技の各流派のやり方をまとめて検証してみました。
タイミングと相手の反応、体の中にまで支点を移動させる、という辺りが共通の秘訣だと思われます。
心得がない人にも比較的使いやすいのは「手ほどき」を使った上げ方でしょうか。

コラム「良い師を求める・その1」

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。


まだ初稽古していないので、今年初投稿はコラムからです。


武術を修めるに当たって、重要なのは「良い先生に学ぶ」事でしょう。
「たくさん練習する」
「創意工夫をする」
などは、良い先生に習った上で行うと効果が倍増します。
伝統的な技能は大勢の人間の試行錯誤の末に残されたモノなので、そこから学ぶのと学ばないのとでは進歩が違います。

逆にマズいのは自己流で何も考えずにガンガン体を鍛えるやり方で、上達するどころか体を壊してしまいます。
オヤジギャグで言うと「事故流」です。

富士山への登山で例えるなら、全く師に付かずに武術をやるのはJR沼津駅から地図も無しに歩いて頂上を目指すようなものなのに対し、良い師に学ぶのは五合目までバスで行ってガイドが登頂まで付き添ってくれる、ぐらいの差があります。
ちなみに悪い師に付くと青木ヶ原樹海に導かれて出られなくなります。

ほとんどの人は時間にもお金にも限りがあるでしょうから、その中で最大限の効果をあげようとするならスタートそのものをゴールに近づける「良い師につく」のが一番でしょう。

そういう意味で言うと、武術練習会の活動は逆行していますね(笑。
(我々もいい先生に付くのがベストだとは思っていますが、実験的な試みもあるので)

それでは「良い先生」とはどんな先生かについて考察していきます。
あくまでも管理人の考えだということをお断りしておきます。

まず第一に「技術が正しい事」です。
これは流派の宗家だとか、系統がはっきりしているとか、そういうのとは別です。
あくまでもその先生自身が「理に適った動きができるか」どうか。
これをまず最初のチェックポイントにするといいでしょう。

ではそれをどう見極めるか。
簡単な方法を2つご紹介します。
1つは「技が良く分からない」ことです。
先生が動いているのをじーっと見ていても、どういう軌跡を描いているのか追えない、動きが記憶に残らない、どうやって技を掛けられたのか分からない、理解を超えた運動をしている、という事です。
目に見えないような素早い動きではないのに、気がついたら動作が終わっていたりします。

普通の人は動作を起こす前に「いくぞ!」という予備緊張が入る為、どうしてもワンテンポ遅れて開始されます。
また、体のコントロールが不十分なので、動作と動作の間がブツブツと途切れたりします。
こうした運動は目で追えますし、動作が始まる前や途切れた時に押さえ込めば技を封じることが出来ます。
「分かりやすい技」な訳です。

対して「良く分からない技」は、動き始めに力みがないので、いつの間にかスタートしています。
そして動作間に空白が無く、動き自体も滑らかなので付けいる隙がありません。
ブツ切りの普通の動きを見慣れている人には、こうした淀みない動きを目では見ていても脳で処理できないのです。
伝統的な武術の型は、このような滑らかなコントロールされた動作を養成する為に考案されたものなので、こうした動きが出来る人は伝統に則った正しい鍛錬をした、という証明になるのです。
厳しい言い方ですが、いくら強そうでも見ていて良く分かる動きをする先生からは得るモノがないと思います。

2つ目は「普段、静かで丁寧な所作をしているか」です。
先生の道場以外での立ち振る舞いをよく見て下さい。
正しい技術を身につけている人は、静かにスーッと歩きます。
階段を昇るときも足音を立てずにスルスルと上がって行きます。
(階段を降りる時も静かに出来れば完璧です)
なにか物を置く時、ドサッと投げ出したりせず、物が接地するまでちゃんと持って静かに置いたりします。
イスに座る時もドカッと座らず、音も立てず静かに腰掛けるでしょう。

正しい鍛錬をしている人は普通の立ち振る舞いが静かで丁寧なのです。
神経回路が隅々まで形成されて、動作一つ一つを最後までしっかりこなすことが苦にならないため、自然とそうなります。
対して、いくらパワーがあって素早い動きが出来ても正しい鍛錬をしていない人は、体を隅々までコントロール出来ていないので、途中で意識が途切れたり、動かない部分が邪魔をして雑な所作になります。
バタバタ音を立てて歩いたり、モノを放り投げて置いたりするでしょう。

武術の技は無意識に出てくる様でなければ実際に使えません。
正しい練習をして体が武術用に変わっている人は、何気ない行動だからこそ理に適った動作がにじみ出てくるのです。

これは先生を見定めるだけでなく、試合で相手の力量を計るときにも使えると思います。


(「良い師を求める・2」へつづく)


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